【自己=神】説

この世において、
他者が存在するという確証は無い。
必ず他者の前に自己がある。

つまり、この世界そのものは自分が中心であり、他者が存在するのは自分の世界の中なのである。

私と、仮にAという人がいるとしよう。
その場合、私の中にはAという人が存在するが、Aという人の中に世界があるかどうかまでは私が把握することはできない。
Aが昨日パンを食べたと言ったとしても、
それは私の世界の中でAが動いているのであって、Aという世界は存在しない。

それを前提として考えると、
この世のあらゆる物が消える。

デカルトという人が言った言葉で、
「我思う、故に我在り」
という言葉がある。

まさにそれだ。
本当は全て夢・幻のようなものであり、
私自身の頭の中で構築され、
頭の中だけで認識される。

しかし、今考えている自分、
その存在を否定することだけはできない。

であるからして、彼の言葉を借りれば、
「我思う、故に我在り」
なのである。

しかし彼はここで神の存在を示した。

が、私は彼も含め、神自体も私が生み出したのでは無いか、と思う。

じゃあ私はどうして生まれたのか。
親から生まれてきたのではないのか。
歴史をどう説明するのか。

実はこれは簡単に説明がつく。

私自身が生まれた時の記憶は私の中に無い。
私自身が生まれる以前の記憶も無い。
しかしそれこそが、最大の証拠なのだ。
私が生まれる以前の記憶、
私が生まれた時の記憶、
そんなものは無くて当然である。
なぜなら私自身は『在った』のだから。

精子卵子が受精卵を作り、
そこから子が生まれる。
それすら私自身の後付けなのである。

自分自身で自分以外の他者を作り上げ、
自分以外の他者の歴史を作り、
自分が経験する様々なものを作り、
自分の知っていることと、
自分の知らない部分を作り、
自分以外に優劣をつけ、
自分以外の場所でのあらゆる物を作った。

そう、神でさえも私自身が作り出したものである。

自分の世界を作り上げたのは、
実は自分なのであるから、
この自分の住む世界で言うところの神は、
あえて神という表現を用いるのであれば、
それは自分以外に考えられないのである。